「みんなのすえっこから みんなのアニキへ」学校へいかない生き方ってしってる?#14(前編)
今回で14回目になったK2クラブハウスプレゼンツ「学校に行かない生きかたって知ってる?」シリーズ!
さまざまな業界や切り口で、若者支援の活動に携わる、さまざまな方の来し方生き方行く末あれこれを、おなじみ菊ちゃんが石巻の拠点、K2ハウスからお話を伺っています。
菊ちゃんは、共同生活を生業にどっぷりハマってこの道20数年!!のプロフェッショナル。もはや仕事が生活なのか、生活が仕事なのかが分からないボーダーレスな生きかたをする日々を送っています。
かたや今回のゲスト、育て上げネットの阿部渉さんも、びっくりするほど仕事っぽくないはたらき方をすることで定評がある御仁です。(これはホメ言葉)
生きるように働き、働きの中に生きるお二人の新鮮なトークは、聴く人の価値観がでんぐり返る時間になりました。
それでは、阿部さん菊ちゃんの自由人トークをお楽しみあれ~♪
「ま、やってみれば」みたいな感じでゴーサインが出て…
こんにちは。育て上げネットの阿部渉と申します。
阿部さんの簡単な自己紹介と、今どういうお仕事をされてるのかちょっとお伺いしていいですか。
育て上げネットに2006年に入職して、今年でちょうど18年になります。僕は元々若者の就労支援がしたくて、熱い思いを持って来たのではないんです。僕も実は育て上げネットのひとつの事業であるジョブトレの利用者だったんです。そこからの経緯で今に至るという感じです。
育て上げネットはどのような団体ですか?
私が所属しているジョブトレ事業部は名前の通り、若者たちに向けて仕事のトレーニング体験を行っています。いわゆる働くための準備段階の活動です。
僕自身もそうでしたが、就労経験がないと「自分って社会で通用するのかな」「仕事できんのかな」いろんな心配不安があると思います。
ジョブトレでは、就労の疑似体験を経験し、コミュニケーションスキルのトレーニングや、仲間同士の横の繋がりを形成しながら、少しずつ社会に出る不安を取り除いていくねらいがあります。
もうひとつ、夜のユースセンターという従来の支援の枠組みとは別に、夜の居場所を毎週土曜日の18時から21時という時間で開放しています。
現在はこのジョブトレと夜のユースセンターの現場リーダーが私の仕事です。
以前にsoarの取材を受けられた記事を読ましてもらったんですけど、夜のユースセンターは、アベさんご自身が夜の居場所をやりたいと声を上げたことがきっかけで立ち上がったと聞いています。
そうですね、喫煙所でたまたま理事長の工藤と話していた時のことです。
そもそもの経緯は話すと長くなってしまいますが、僕自身、育て上げネットが20年前に組織として立ち上げたばかりの頃の利用者だったんですね。
当時はまだちっちゃな事務所で、事務局長や理事長と同じ空間にいながら、若者たちと雑談やゲームなどをしていて。
日中は仕事体験で外に出たりしているんですけども、一般的な就労支援や通所型の支援施設って、夕方までで時間が終わり、皆さん自宅に帰宅するじゃないですか。
僕自身もひきこもった経緯が色々あり、あまり家に早く帰りたくなかったんですよね。ようやく重い腰を上げて、家にたどり着いたものの、帰れば母親に口うるさくああでもない、でもないって言われる。
それが嫌でこっそり事務所に残っている人達と、ウイニングイレブンをひたすら11時とか、終電間際までやってたんですよ。
実際そういう時間は日中の支援とはまた違った居心地の良さがありまして。
やっぱりこの時間だからこそ、本音で話せる瞬間だったり、自分の中で消化できていない将来の不安みたいなものを、こっそり話せたり。
いわゆる秘密の空間というか、その時間がすごく好きで。
その後いろんな経緯があって、育て上げネットに入職して、僕が支援する側、皆さんと関わる側になって。決まったカリキュラムに沿って、ただ関わるだけだと、当たり障りないというか本気でぶつかれない瞬間もあり。
僕もそうでしたけど、最初は皆さん「行くのめんどくさい」「支援て何?」「みんな偉そうだな」「やりたくないな」という思いを持ちながらやるんですけど。
でも参加していくにつれて、信頼できる仲間やスタッフができてくると、次第と居心地のいい空間に思えるようになって。
私自身にもあったんですが、ここにもっといたい、みんなと遊んでいたい、お話していたいっていう気持ちになってくる。
参加するみなさんを見ていて、半年や1年の期間を経て、ここを居場所と感じられる思いを持っている人たちに対して、単純に時間の区切りで、じゃあバイバイとなるのは、どことなく寂しいなって。
帰り際になってから「やっぱりちょっといいですか、ちょっと相談があるんですけど」みたいな話になることが多くて。
信頼してくれてるのかな、頼ってくれてるのかな、いい意味で甘えてくれてるのかなって。やっぱりこちらとしては嬉しいですし、そこに時間だからもう帰ってくれよっていうのも酷な話なので。
この夜のユースセンターは3年前に事業化したんです。コロナの時期も重なっていて、皆さんと対面でリアルに会える時間も限られてしまい。
居場所の利用は、居心地が良くて、ここが好きでいてくれている若者たちだけではないんです。
育て上げネットが子ども向けの学習支援事業で、一部の利用する子どもたちの話を聞くと、家庭や家族に何らかのトラブルがあり、色々抱えている子どもや若者が多いことがわかりました。
あとは僕も昼夜逆転している時期を経験したので、思い当たるんですけど、夜の時間だからこそ活動的になる子たちっていうのもいるじゃないですか。
夜に居場所を開けることが、さまざまな次の支援のステージに進むきっかけになるかなという思いもあって。
でも、そんなに力説したわけじゃないですよ、たまたま夜の時間を延長したいんですけど、みたいなことをただ言っただけなんです。その話を理事長の工藤にしてみたら、「ま、やってみれば」みたいな感じでゴーサインが出て。それから1週間もしないうちに毎週土曜日、この夜の時間を開けることになった感じです。
夜の時間帯の居場所があちこちに結構できた時期ですね。
はい、やり始めてからは本当に嬉しいことに、いろんな団体さんや議員さんだったりさまざまな方に見学に来てもらうことが増えまして。
夜の居場所は支援の空間ではないので、「コミュニケーションの練習するために、一生懸命声かけしよう」「みんなと一緒に仲良くゲームしよう」っていうような、無理して集団の輪に入れるようにするわけではなくて。
それぞれが思い思いに過ごしていいし、1人でいたいなら1人でもいていいし、みんなと遊びたいなら遊べばいい。若者は参加費無料なので、お弁当食べて帰るだけでもいいし、ゲームやボードゲームしたり音楽やったり好きにしていていい。
特になにかしているわけではなく、ただこの場所を開けて、自由に空間を過ごしてもらう。彼らの思い思いに好きなことしてもらっているというだけなんです。
K2の共同生活の、夜の時間みたいな感じやね。昼間プログラムがあって、それなりにやるけど、帰ってきたらもうだらっとして、なにするわけでもないから家でくつろぐみたいな。そんなイメージですよね。
今までお話聞いて、ジョブトレに阿部さんご自身も縁あって、繋がることになった。簡単でいいんですけど、ジョブトレに繋がった経緯やその内容について、もうちょっと聞きたいんですけど。
僕みたいにエネルギーが有り余ってる人は、そうそういないのかも…
そうですね、多分僕みたいにエネルギーが有り余ってる人は、そうそういないのかもしれません。
今回のこのトークイベントのタイトルを、育て上げの末っ子みたいな感じで作っていただきましたけど、当時私が利用者として来たのは、20歳の時だったんですね。
僕の過去の話をしますと、中学の時に両親が離婚しまして、母子家庭で長いこと生活してきたんですね。で、ひょんなことに、急に母が再婚する話になりまして。それが思春期真っ最中だったこともあり、母の再婚相手を父親として認められなかった。反発っていうんでしょうか、そういったことも重なったり。
あとは再婚してしまったという事情で、元々東京生まれだったのが、中学3年の時に埼玉県に引っ越す話になったんですね。埼玉の飯能市に。
東京の中学に通っていた時は、すごく楽しくて仲間も多かったので、こいつらと一緒に卒業式を迎えられるのかなって思っていたんですけど、それが急な転校になって納得できなかった。
転校先は田舎だったからかわかんないんですけど、いわゆるヤンキー漫画に出てくるような、短い学ラン、長ラン着たような、いかにもガキ大将みたいな体の大きい子が後ろ歩いて、子分みたいなちっちゃい子たちが前にいるみたいな、ちょっと田舎の学校だったんですね。
で、いわゆる東京から転校してくる奴がいるぞっていう話が、学校中の話題になってしまって。別に売れっ子のスターでもなんでもないのに、学年が盛り上がる。東京から来たぞ、新宿あたりから来たらしいぞと妙な期待感があった。
転校初日で、どこどこから来た阿部ですみたいな話をして、その時にみんなに注目されるのも嫌だったんですよね。休み時間にも、もういろんな人たちが、東京のどこから来たの?、何してたの?、東京って何々が有名なの?、もうドラマやアニメにもありそうな。
それがすごく個人的には苦しくて。それと環境が変わってしまったことへの悔しさだったり、苛立ちだったりっていうのもあって、学校には1回しか行かなかったんですよ、本当に。
1年ほぼほぼ行ってないんですね。なので卒業式にも参加しませんでしたし、卒業アルバムもここに丸く顔写真がある程度で、ずっとフリースクールに通ってたという経緯です。
高校はまた新しく変わるということで、一から楽しみにしていたのもあり、そこから3年間無事に毎日通って友達作れたりもしたんですが、ずっと遊び放題してた。
遅刻も年間300日、ほぼ不真面目な感じで。毎日、学校終わったら夜な夜な遊びに行って、みたいな感じで。バイトもしてなかったですね。
そんな状態で急に3年になれば、やっぱり進路どうするのみたいな瀬戸際になって。進学するのか、就職するのかって。当時バイトもしてなかったし、学校の勉強は好きじゃなかったので、多分進学はしないだろうなという話もあって。決断ができないまま、気づいたら卒業という時期になってしまった。
そうなると、もう学校っていう安全基地というか、居場所っていうものが失われちゃったわけですよ。残された手段としては、求人でもなんでも見てバイトすればいいんでしょうけど、いざそうなった時に就労経験ないし、果たして自分は何がしたいんだろう、何だったらできるんだろう、そもそも面接するってちょっと怖いな、履歴書は何書けばいいんだろうとか。
みなさんがよく感じることっていうのは、僕自身もすごくあって。で、親に早く働けって言われるんですが、なあなあにしてたわけですよね。いつかするよって。
父親は再婚相手なので、あまり強く言わなかったんですけど、母親がすごいうるさい人で、もう毎日顔合わせる度に、どうするの、早く働きなさいよと言われて、それがもううざったくてですね。もう、反発して「働かねえよ」みたいに。
およそ2年間無業の状態が続くんですけど、その間嬉しいことに高校の時のクラスメイトが、気兼ねなく遊びやカラオケや食事に連れてってくれたんです。
親は当時は高校卒業して何もしてなかったので、しぶしぶだとは思うんですけど、まだ僕にお小遣いくれてたわけですよね。友達との付き合いもあるからって。自分は小遣いもらっていて、周りはバイトして遊ぶ金を稼げてるのに、自分は何してんだろうっていう申し訳なさっていうんでしょうか。
前までは楽しく遊んでたのがひょんなことで、金を使うことに、急に嫌な気持ちになってです。ある時から友達からの連絡を全部ブロックして、全く連絡取らなくなりました。いわゆる距離を取り、そこからはもうほぼ孤立。今で言う孤立状態っていう時期に入ったんだと思うんですね
で、やっぱり、世間の目を気にする母だったので、日中家にて音を立てたり、ゲームして騒いだり、いわゆる近所の目につくと恥ずかしいと。
それ言われちゃうと、自分はこの時間に生活していてもダメなのかな、息を潜めていないといけないのかなってなる。日中ほぼ電気をつけず、部屋からも出ずに、面白くもないゲームをしてるわけですよ、暇つぶしに。
で、夜になると、学生や会社員が帰ってくる頃合いを見て、わざとらしく外に出て、コンビニ行ったりしていたんですけど。
お前暇そうだし、毎日来いよ
そんなこんなで、2年間ずっと。おそらくその間に親が勝手に支援機関に相談行っていたんだと思うんですよね。
それで、急に育て上げの工藤さんのお父さんが理事長をされていた、福生にある青少年自立援助センターの親ゼミに行って。それも騙し打ちだったんですけど、「ちょっと買い物行こう」みたいな。
買い物とは全然違う場所だったんですけど、話を聞きました。僕も興味なかったんですけど、工藤理事長と個別で相談した時に
「お前は元気そうで、まだ若いし、宿泊に向いてないよ。」
「息子が立川で、いう団体で通所型の支援やってる。そっちに相談行ってこい」みたいな話になったんですよ。
それで、めんどくさいなと思いながら、また立川に連れて来られて。
やっぱり気持ちとしては、早く働かなきゃなっていうのはもちろんありました。できることなら、きっかけが持てるとすごく嬉しいな。でも自分から働きかけられないし、めんどくさいけど、言われるがままについていけばあるかな、みたいな淡い期待感を持って相談に行き、今の事務局長の石山さんと面談をさせてもらって。
家にいた時はもう母親との毎日口論だったり、つかみ合いで、物投げたり騒いだりしてたんで、母は早く外に出てほしかったと思うんですよね。
今で言う初回の初めましての面談で、多分今の時代だったらないと思うんですけど、
「うん、お前暇そうだし、毎日来いよ。若いし、暇なんだろう?」
「うん、毎日暇ですよ、やることないっすから」
「じゃあ月から土曜日、うん、ジョブトレの体験に来いよ。」
「いいっすよ」みたいな。
あまり考える余地なく、個人的には多分嬉しかったっていうのもあると思うんですよね。今のつまらない生活を毎日続けているよりかは、毎日通う場所できたぞ。
ちょっと変われるチャンスあるのかなって。
「じゃあぜひ、毎日行きます」ってことで、当時埼玉の所沢だったんですけど、そこから立川まで電車で通って。朝から夕方まで、体験するわけですよ。
今みたいにおっきい団体じゃなかったので、ほんとにつまんない体験だったり、体を酷使する体験をしたり、すんごい大変だったんですけど、初めてのことばかりだったのがすごく新鮮だった。
あとは当時、私が1番年下だったんですよ。みんなニートと言われるような、自分より一回り上の、何かしら問題を抱えている30代前半から半ばの方で。
自分が初めましてってあいさつした時に、
「20歳なの?20代でこんなとこ来る場所じゃないよ」と大先輩たちから言われ。いや、あなたも働いてないわけでしょって思ったり、こんなとこ来ちゃって後悔するんじゃないかって思ったりもして。
でも、個人的にはもうここしかないな、このチャンス逃したら多分またひきこもっちゃうだろうなと思ったので、あんまり他の意見には聞く耳持たずに、とりあえず1年間、もう毎日のようにジョブトレ通い。
そうしたら少しずつできることも増えて、役割も与えられて。ジョブトレのひとつに、新聞屋さんの折り込み作業があったんですけど、そこの中心メンバーに自然となって。
たまたま器用だったっていうのもあるのかもしれないんですけど、もう毎日新聞屋行ってるわけですよ。
ジョブトレは1年ぐらい体験すると、仕上げにそろそろ一人一人にどんな仕事が向いてるのか、就活の働きかけしようかという話になるんですけど、当時の自分もその時期になった。
どうする、色々やってきたけど、アルバイトそろそろやってみられそう?みたいな話になるんですよ。
自分はアルバイトのことは、あんまり考えてなくて。がむしゃらに目の前にある仕事の体験を、ひたすらやっていて、なんとなく上達していくな、体力ついたな、仕事ってこういうやり取りがあるんだなって知ってきたんですけど。でも、本当の仕事って結局経験ないじゃん。これだったらできるっていう実感もずっとないなって思って。
それで、正直に僕まだしたいことないですっていう話をした。
そうしたら、この時もたまたま理事長だったんですけど、
「うん、じゃあうちで仕事してみれば?」
「やってみて、合わないとかつまんないとか思えばやめればいいし」
その時もジョブトレに初めて繋がったのように、もう何も考えず
「はい、じゃあやってみます」みたいな。
もう本当に行き当たりばったりなんじゃないかな、僕の人生。
そこから育て上げネットの職員として、21歳を過ぎたぐらいの頃から、今のジョブトレの現場でずっとお世話になって。今もなお現場のリーダーをしてます。ずーっとこの場所守り抜いてるというか。
支援者でいるとか、スタッフっていう立ち位置、あんまり好きじゃない
家にいて、親に連れられて初めて親の会に行った時って、行こうと思えたんですか?「うぜえ、行きたくねえよ」とか?
もう、うざかったですよ。しかも、だまされましたからね(笑)
でも、行ってみようか、出かけようかっていうのは思えたってこと?
そうですね、めんどくさかったんですけど、内心はなんとかしたいなっていうのはありました。やっぱり親には申し訳ないですし、2年何もしてなかったっていう。
どんどん周りとは差が開いていくし、これがこのままずっと続けば、気づいたら何十年経っちゃうのかな、やばいぞと。でも自分1人で調べてみる、自分の足で相談に行ってみる勇気ももちろんなかった。なので言ってしまえば両親がきっかけなのも、ある意味救いだったと思いますね。
今、支援されてたらわかるだろうけど、きっと綿密な計画の元に、本人を連れて来る流れがあったんでしょうね。よし乗った、行けるぞ!みたいなのがあったんやろなって。
「スムーズにこいつ乗ったぞ!」って思われたか(笑)
「今来ました!このまま行きます!」そんなやり取りもあったんやろなあ。
自分が利用者やって、それからお仕事する側になって、自分これだけは心がけてんねん、自分の中でもこれだけはちょっと意識して気をつけてるとか、あったりします?
いや僕、支援者でいるとか、スタッフっていう立ち位置、あんまり好きじゃなくて。言ってしまえば、利用者として来た時もそうですし、支援者として入った時も、5年ぐらいは僕が一番下っ端だったんですよ。なので変な話、社会経験も全くなくて、元当事者の僕が何を伝えてあげられるんだろうっていう葛藤があって。
そうなった時にできることは、利用している方たちはみんなやっぱ30歳とか、もうだいぶ年上なわけですよね。
やっぱり失礼がないようにコミュニケーション取らなきゃいけないのもそうですし、偉そうに指示したり、見守ってるっていうことではなく、彼ら以上に働いてやろうと思って。
だから仕事の体験や引率の時、スタッフは基本的に観察しながらどんなことができてるのかな、どんなとこが苦手なのかな、こうするといいんじゃないと、アドバイスしたりすると思うんですけど、自分はそんなことできなかったので、単純に彼らと同じように、一生懸命労働して、受け入れてもらうしかないかなと思ったんです。
スタッフとしてより、仲間として受け入れられたい意識も高かったのかもしれない。いわゆるフラットな状況で彼らといる。それで彼らからいろんなことを教わる、学ぶ瞬間もいっぱいありました。
「スタッフ」>「利用している若者」となるのが、僕はすごくしたくなくて。
その気持ちは今でもあります。18年いるものだから、自然とスタッフ感は出ちゃいますけど、気持ち的にはその辺にいる、ただのおっさんみたいな。で、やあ、たまたまあなたも当事者だったんですね、みたいな。
皆さん一人一人経験は違えど、ちょっとでも共感できたり共通する部分があって、僕自身はこんなふうにして乗り越えられたよ、みたいなことが、みんなに伝わったり、少し参考になってもらえればいいなと思ってます。あまりスタッフっぽくないってよく言われますけどね。
K2の元メンバーがそのままスタッフになってる子も、今の話すごいわかるって言っていて。
K2ではメンバーからスタッフになった子は、Jスタッフって呼ばれるんですけど、みんなわかるわかるって思いながら聞いていた。メンバーだったのに急にスタッフの立場になって、今まで一緒にやってた仲間と、どうやっていこう?みたいな。同じように思ってるんやろうなって。
とりあえず自分の目の前に与えられた仕事を、まずは一生懸命やろうっていう。人の目がどうかっていうよりも、そこを一生懸命やったらいいんやなって、みんな共感できるんちゃうんかなって。
本当に、もうもう毎日、目の前のことをやるしかねえなって思って。
入職して4~5年ぐらい経ってから、僕がまだ24、5歳の時、休憩中に当時35~6歳の大先輩が、
「阿部さんってなんでスタッフなのに僕ら以上に働いてんですか?」
「利用者の僕らに作業させればいいじゃないですか」
「もっと阿部さん偉そうにしてくださいよ」って言ってくれて。
年齢は僕の方が年下だし、経験もないけど、スタッフとして見てくれてるんだなという実感が持てた。認められた、受け入れられてるのかも、と思えてちょっと気持ちが楽になりましたね。
いやこれちょっとJスタッフの皆さんに聞いてほしいわ。
色々葛藤が絶対あると思うけど、本当に目の前のことやってたら、他の子たちは見てる。その姿を皆さん見てるからこそ、この人はスタッフなんだ。
「利用者なのかスタッフなのかわかんないな、あの人」という感覚は大事かも。
育て上げネットでも、K2でもメンバーとしてサポートを受ける側から、立場が逆転して今度は自分がサポートする側に回った時の葛藤があるのですね。
それこそが経験の獲得となり、成長の大きなチャンスになります。
支援の循環や恩送り、という言葉のように、「働く」は「傍を楽にする」こと。
ケアを受けるとか、サポートをされる側の困難を抱えていたはずの当事者が、役割を持ち、どこかで誰かの、何かの役に立つことで、それまでは我がことばかりで葛藤していた壁を破り、回復するのだと思います。
気になる後編はこちらからお読みください。(公開日以降リンクが有効になります。)