#1 マシュー氏の樹上な生活
K2マガジン編集長マッシャーはある情報を入手していた。
「マシュー氏は時々、森林公園の木の上から根岸の街を眺めているらしい」
普段はメタバース空間であるメターバックス楽市で若者や子供たちの居場所支援を中心に、オンラインという空間を活用された支援活動をされているマシュー氏。
K2クラブハウス×メターバックス楽市のコラボ企画「ショートフィルムの世界」ではメタバース空間上でのショートフィルム鑑賞会を開催、その個性を爆発させていた。
後々「ショートフィルムは僕初心者なんですよね!」を聞いてマシュー氏の奇才に編集部が二度仰天したのも記憶に新しい。
そして木の話を聞いてからこのかた、マッシャー編集長は気になって仕方がなかった。
森林公園ってK2のすぐ上でかなり間近だし、その木の上で何をしているのか?
一体何を考えてそんなことをしているのだろうか?
いや、つまり俺たちはずっとマシュー氏から眺められて…??
繊細なマッシャー編集長は眠れなくなった。
そして聞いてみることにした。そうしたら…大変なことになった!
マシュー氏の四次元ポケットみたいに無限大な頭の中身が、おもちゃ箱をひっくり返したみたいにあふれ出した!こりゃスゲーわ!
こんなオモシロい人を野放しにしておくわけにはいかない!よし、新企画立ち上げだ!!
というわけで、新コーナー立ち上げ!
「そうだ、自分の木登りをするための木を探しに行こう」
(♪鼻笛によるマリオのテーマ♪)
これ鼻息で吹く笛。鼻息で吹きながら、口の中で動かす舌の位置で2オクターブ出せるんですよ。ノーズフルートって言って、大体東南アジアのものです。
鼻笛、それを公園の木の上で吹いております。
大人になってから「木登りっていいな」と思ったんです。
それまで全然したことなかったですね。木に登っちゃいけないって育ったんで、登れる木もそんなになかった、街中だと。
で、ある時「そうだ、自分の木登りをするための木を探しに行こう」と思って。で、代々木公園に行って、初めて木登りした。
なんでそう思ったのかわかんないんですけど、代々木公園で木に登ってみたら、
「あ、木登りってやっぱり面白いんだな」と思って。あと、 「変な人たちいっぱいいるぞ、面白いな」と思った。
よくわからない人たちがいっぱいいた。公園っていいですよね、何をやっているかわからなくても居られて。
いろんな人が集まって、同じことを駅中とか会社とか道路でやっていたら、お巡りさん来るだろうなということでも、公園だとなぜか絵になって受け入れられるという、“公園イリュージョン”。
「公園イリュージョンを使うと、もしや我が素を出しても大丈夫なのではないか」
それなら僕の居場所があるかもしれないと思ったんです。
いろんな公園に行かれるんですか。
いろんな公園に行きます。けど、やっぱり結局根岸森林公園の自分の木に戻ってくるわけです。
なるほど、決まっている木があるんですね。鼻笛吹いてると、人に見られることもあるんじゃないですか?
吹いてる時は、木の上で仰向けなんで、わかんないんですけど、気がつくと下に子どもたちがわらわらいる。
そのあとどうするんですか。下に子どもたちがいて…
子どもは好奇心で何やってんだ、という感じで
「ママー!マーマー!?あれ見て!あれ何?見てー!あーそーこー!!」
大人になってから「アレ」って呼ばれるようになる(笑)
確かに公園っていろんな人がいるし、ある程度時間がある人たちが来て過ごす場所ですね。おじさんのソロ活動も多くて、なんとなく怪しみながら遠巻きに歩く…。
できればね、 経済とかの枠の外で暮らしていきたい。生きていて、ただいるだけで肯定される何者かになりたいと思う時があります。貨幣経済の枠の外で生きていけて、特に糾弾されないのであれば、放っておいていただければ、もうなんでもいいです。
マシューさんが放っておいてくれって思う時はいつですか。
よくあるじゃないですか。「見つけてほしい」とか「ここに自分がいる」とか。
そこを望むくせにその真逆をやってるよね、ってよく言われるんですけど、真相はわりと放っておいてほしいというか。
ひとりで、ひとまとまりの時間。例えば本を読むにしても、空想にふけるにしても。
SNSやテレビの情報、ピンポン鳴ったり、自分のタイミング以外の何かが起きて、雰囲気や世界が壊れてしまう状況ってあるじゃないですか。そういったものがない、干渉されない時間というか、ひとまとまりの自分でいられる時間が、子供の頃はたくさんあったんですよね。
例えば学校に行くにしても、道すがら草っぱらでありんこを見たりとか、蛇がいるなとか、ぼーっと雲を眺めながら無駄なことができた。特にノルマもなく、制約がない時間を好きに使ってよくて、何をしてもいいし、何もしなくてもいいというような時間。その中で、自分という個が出来上がっていった。
そういう時間が、大人になるに従ってなくなってきたなと思うんです。
何もしない、ひとまとまりの時間がないと、満たされなくて、人生がろくなものにならないのではないかと感じていて。じゃあ満たされた時ってなんだろうって思うと、やっぱり時間がいかに自由にできるかにあるなと思っている。それがやっぱり僕にとって「放っておいてほしい」という欲求なんだと思う。
僕、無駄とか、雑とか、 余白、伸びしろとか、無意味とか、のろい、 ゆっくりっていうのが好きで、いいなと思っていて。自分がいきづまらないために、できにくくなっている、そういう時間を意識的に持てるといいなと思っている。
だからひとまとまりの時間のためなのか、気がつくと公園にいるっていうことです、うん。
そういう時間を持てるっていうのは、どういうことなのかといえば、多数派の皆さんは、毎日どこかに行って、何をしてみたいなルーティンが大体決まってるじゃないですか。それがいわゆる立派な社会人や学生だったり、社会的な安心みたいな。月曜日から金曜日まで働いたり学業したり、土日祝はお休み。祝祭日、みんなお休みだから、外出るといっぱい人がいて、結局疲れて終わるみたいな。
僕はそれと逆な生活がしたくて、ちょっと世間からずらしてたい。じゃないと、僕は弱いから、崩れ、壊れてしまうところがあるんですよね。
やっぱり余白なんでしょうね。内省、整理をするとか。フローに入るっていうか。
何もしてないことは大切ですね。似た話で子どもの時期は、特に脳が成長する時期でもあるから、いろんな「やること」を詰め込んでやり込ませてしまうと余白がなくなる。健全じゃないし負担がかかる。
子どものうつ病と関連したそんな記事を読んだことがあります。
そうですそうです!「取り戻す」時間みたいな。「整う」って大事だなって思っていて。最近よくサウナとか、瞑想とかいろんな種類あると思うんですけど。マインドフルネス、今流行ってるじゃないですか。ピラティスとかヨガとか 、リトリートとかありますよね。“森の中でリトリート”とか。
こういうものは、割と「何もしてない」ってことが共通しているんじゃないかって思うんです。
何もしないようにする時間を、そういうアクティビティとして行っているんだろうなと。
つまり、サウナも熱い中に入って「何もしていない」をしている。「何もしていない」はオフィスだったら怒られる。
リトリートも大体、自然の中で人と会話しないでぼーっとするひとときがあるわけですよね。
そうしたものを後で、あえて振り返って言語化する時間も含めるのだ思うんですが、言語化することで陳腐なものになってもったいないなって。言語化しない時間が僕には必要なんだけどなと思っています。
おそらく敢えて言語化して、価値を意識してもらって、商品としてお金を払う意味が出てくるのかなとか。
いずれにしても、サウナにしてもヨガにしても、“整う”その1つのキーワードの中には、ひとまとまりの余白の時間がきっとあるんだろうなと思うわけです。
では、我々は余白の切り売りをして商売しましょう。どうですか。(笑)
これ。商売になる。コンテンツとして、あなたの人生に余白を作りますみたいな。
特に今、色々ありすぎるから、何もしない。何もしない「ないがある」みたいな。
「何もしない っていうことに忙しいんですよ、私は!!」みたいな。
そう、それ!僕が大好きな、辻進一さんというね、 文化人類学者で環境運動家の「ナマケモノ倶楽部」というのを作ってる人がいるんです。その辻さんも言ってましたね、
「僕は忙しいんだ」 って。「何に忙しいんです?」
「自分を忙しくしないことに忙しい」みたいな話を書いていた。いいよね!
「なんだ、そんな時間はない!」と。
あと、「しないこと」リストのすすめ っていう本もおすすめ。
同じタイトルで、元日本一のニートの「しないことリスト」という本がある。
辻さんも、そうですし、吉本ばななさんのお父さんで、吉本隆明さんも同じことを言ってて、みんなそれぞれ共通してて面白いなぁと。
哲学者が日常の些末事に囚われていたら、思索できないですよね。
そうなんですよ。やっぱり僕は樽のディオゲネスのように生きていけたらなと思いながら。
結局、公園で鼻笛を吹くことも、盛大に「何もしないこと」への没頭なのでは?
うん、でも鼻笛吹いてるだけじゃなくて、実はわりとしてることはあって。公園の木の上でやることがあるんですよ。ちょっと変な話なんですけど。僕、木と話せる気がしているんです。あんまり言うと、変な人になっちゃうんですが、大丈夫ですか?
大丈夫です(多分)
僕は木と対話ができると思っていて。
木って人間よりも何倍も生きているわけです。 ずっと同じ場所に居続け、足が生えていない木は一つの場所にとどまらざるを得ない。
人間は環境が合わなかったら、環境を作り変える。動物は水や草、獲物がなかったら移動する。そうして順応してきた。
植物は、自分を環境に順応させて長く留まり生きる。そこに畏敬の念があって。
植物は自分を曲げて順応するんです。コンクリートの中で、すごい生命力みなぎるアートのように。
上にガードレールがあったら、それを包み込むように飲み込んで大きくなる木とか。 草の生け垣の中から出た1本だけの雑草が、そのうち木になっていくみたいに。
人間よりも長く、しかも同じ場所に居続ける制約があるからこそ生み出される、木が特有に持っている知恵、ウィズダム、叡智。
木の上でも、木の間の木漏れ日、あれをいつも見てるんです。迷っている時とかそれに向かって、答えが出るまで、はっきり見るんじゃなくて、ぼーっと虚ろにずっと見ているんです。木が揺れているのを。飽きると鼻笛吹くんですけど。
するとモヤモヤが言葉になる時があるんです。晴れる瞬間というか、 晴れて言葉が出てくるのかどっちかわからないんですけど「整う」時があって。その瞬間を探しに木の上でずっとぼーっとしてる。ボケっとしてます。
樹上で何してるのか、を掘り下げるとすごいところまで連れて行って頂けましたね。編集長の謎はひとつ解明されたのかな、と思います。
他にも興味深いテーマがあれやこれやありますので、この次またお願いできれば。今回はありがとうございました!
いやいや。こんな雑談でよかったら僕自身も整うので。
伊達に木の上にいたわけじゃないんですね。
木の叡智をもらってね。でも、「なにもしないをする」っていいですよね。
ほんと今は、「しなきゃ」だからね。
森林公園の樹上でマシューさんは「なにもしない」をしていた。
おあとがよろしいようで。
規格外のマシューさんのお話、いかがでしたか?
マシューさんの自由奔放で率直な感性、意外に共感できる部分もあるのではないかと思います。K2クラブハウスイベントで、ぜひ直接出会ってみてくださいね~♪