言葉の処方箋~力を貰える名言~(※効果には個人差があります)第3回
(『新潮社|著者ページ』より引用)
「人生が余ってしまった」
ー髭男爵 山田ルイ53世 氏
弱いから強い
皆さんは世界最強の生物って何だと思いますか?
象? クジラ? ワシ? はたまた人間やウイルス?
もちろん満場一致の答えはありません。そもそも定義があいまいなので決めようがない、という身も蓋もない理由もあります。
が、実は現代社会において私達はごく短い間ですが、世界最強と言ってもいい存在になれる時期があるのです。
声をあげるだけで周囲にいる人々が飛んできて、自分の希望をなんでも叶えてもらえる夢のような時間。
つまり赤ちゃんだった時ですね。
『赤子の手をひねるように』という言葉通り、単なる生物としての赤ちゃんはもちろん弱者です。
ですが、実際に赤ちゃんの手を故意にひねって怪我させようものなら、間違いなく周囲から爪弾きにされ、まともな社会生活を送れなくなることは明白。
「赤ちゃんに危害を加える存在である」という情報が間接的な凶器となり、社会的な致命傷を受けることになります。
大げさに言えば、赤ちゃんは仏像やお地蔵様のような神秘的な存在と同レベルなわけです。
一方で、いくら可愛い赤ちゃんであっても成長すれば一人の人間でしかなく、特別扱いしてもらえる期間は幼児期を含めてもせいぜい数年。平均寿命から見れば決して長くありません。
にもかかわらず、その数年で染み付いた赤ちゃん気分、いわゆる『幼児的万能感』ってなかなか抜けないんですよね、時に数十年続くくらいには。
夢破れてなんもなし
万能感って表現だと「俺は何でもできるんだ!」とか「私はどこにでも行けるんだ!」みたいな前のめりなイメージですが、『負の万能感』として行動を縛ることもあります。
冒頭の言葉を残した山田さんも、小学生時代は神童と呼ばれていたそうで、中学生のある時期まではなんでも要領よくこなせるような『万能の子』でした。
でもとある失敗をきっかけに14歳から20歳までの6年間引きこもることになり、同級生との差を嫌でも実感してしまう成人式の映像を見るまで、次につながる行動がまったくできなかったんですね。
引きこもっている時の心境を山田さんは「俺は優秀やから、いつでも追いつける」「人生取り返せる、まだ大丈夫」と色々な形で語ってくれているのですが、これこそまさに『幼児的万能感』が足を引っ張っている典型例だと思うんですよ。
子供の頃は人生が上手くいってたと感じる人も、思春期になるとなかなか思い通りにいかないことが増えますから、最終的には現実と折り合いをつけて大人になっていく、っていうのがある意味お決まりのパターンじゃないですか。
(それでも、と我が道を行く人もいるとは思いますが)
ところが、自分が万能ではないと気付いた時期に『万能だった頃の自分』を手放せず、『ここではないどこかに理想の自分でいられる世界がある』という感覚が残ったままだと、いつまで経っても現実とのギャップが埋まらず、生きづらくなっちゃうんですよね。
例えば山田さんは引きこもり生活の後、高卒認定試験に合格して地方の国立大学に入学しているんですが、子供の頃はそれこそ東大も夢じゃない、と言われるほどでした。
もし山田さんが「現役東大合格は無理でも、浪人東大合格くらいはできるかも」と考えて浪人生活を長引かせていたら、とりあえず大学に行くという選択肢を取らなかった可能性は大いにあります。
もしかしたら、その後に続く芸人への道も閉ざされていたかもしれません。
自分では高望みをしていないつもりでも、どこかで自分への期待感を捨てきれない。
本人の感覚で言う『妥協』が実際には『叶わぬ夢』になっているせいで、身動きが取れなくなることだってあるわけです。
無駄を無駄と見抜けないと
ただ、こういう幼児的万能感が見せる幻を振り払えるかどうかは、実際賭けに近いんです。
いい大人なのに子供みたいな振る舞いをする、という意味で悪者にされがちな幼児的万能感ですが、誰だって初めて何かにチャレンジする時は多かれ少なかれ不安があるわけで。
そういう時に背中を押してくれるのは「自分にはできる!」という根拠のない自信、ある意味『空っぽの自分』じゃないですか。
そこから様々な経験を積んで『確固たる自分』が出来上がっていくのであれば、万能感そのものは行動のきっかけとして欠かせないものだと思うんですよ。
一方で『勢いに任せてあれこれやってみたら、何もかも上手く行かず夢も希望もないよ・・・』って打ちのめされちゃうパターンは、それほど珍しくありません。
万能感自体は張りぼてに過ぎませんから、自信・趣味・家族・友人など、何かしら『つっかえ棒』がない場合は、すぐに倒れてしまう。けれど、支えとなるものが他にない以上、それにしがみつくほかない。
そういう時ってお酒じゃないんですけど、『自分の中の万能感にでも浸ってなきゃやってられない』んですよね、人生を。
そうならないためには成功体験と失敗体験を『ほどほどに』積み重ねて、上手く行く時もあれば上手く行かない時もある、というバランス感覚を培わなきゃいけないんですけど、成功や失敗ってそもそも自分でコントロールできるようなものじゃありません。
失敗ばかりが積み重なっていき、時間ばかりが過ぎていく。
『万能だった頃の自分』を振り払って行動に移せるようになる頃には、もう何年も経っていた。
こういうパターンに陥る人が一定数出てくるのはある意味当然で、この焦りや虚しさについて山田さんはこう語ってくれています。
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ひきこもりの経験について話をすると、どうしても落とし所を美談にしたがる人が多いんですよ。「その期間があったから今のあなたが…」みたいな。
いろんな気持ち、心境があってひきこもっていたわけなんですが、普通に考えたら、やっぱり友だちと触れ合った方がそりゃ楽しいし、学校に行って勉強した方が充実してるし、運動して、アホみたいなこともした方が人生にとっては絶対いいんですよ。
僕的には、ひきこもっていた6年間は、ほんまに無駄やと、人生をドブに捨てたと思ってるんですよ。そのおかげで本を出せたというのはプラスなんですけど(笑)。
でも、それを「無駄」にしたくない人たちっているんですよね。ちょっとした美談にしたいというか。その話を突き詰めていくと、「無駄やったらもうアカン」と思っているんだと気づいたんです。無駄があったら、その人生を2級品みたいに思ってしまうんだと。その気持ちが、逆に美談にしたがる、落とし所を見つけたがっているんだなと。
無駄でええやんと。なんのプラスにもならない、ゼロの部分が人生にあってもええやんと。なんでそこまで、ええ感じで仕上げたがるかなという疑問はありますね。
(キズキ共育塾『元ひきこもり芸人 山田ルイ53世氏インタビュー【第4回】』より引用)
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バッドエンドのその先で
万能感に囚われて鬱屈した日々を送り続け、やっと脱出できたとしても過ぎてしまった時間は取り戻せない。
目覚ましい成長もなく、胸躍る冒険もなく、ライバルとの決闘もなく、パートナーと心通わせる瞬間もなく。
朝一番で見に行った映画が、何もかも報われないままエンドロールを迎えてしまった時のような寂寥感。
『人生が余ってしまった』という言葉には悲哀すら感じられます。
それでも一日は続いていきます。
遅めの朝食、あるいは早めの昼食として寄ったファーストフードで食べるハンバーガーもそれなりに美味しい。
映画館近くのショッピングモールをぶらついてたら、昔好きだった小説の新刊が数年ぶりに発売されていたり、近くにある海辺の公園で妙に赤い夕日を眺めたり、家に帰って『あの映画すっげーつまんなかったわ! クソ映画だったわ!』と旧Twitter(現X)につぶやいて、寝る前に見たら4いいねだけ返ってきてたり。
山田さんの著書『ヒキコモリ漂流記』のタイトル通り、ほとんど何も起こらない海の上で送る『おまけの人生』でも、フォーカスを変えることでちょっとした楽しみに気付くことはできる。
悲しみをものともしない、軽やかな希望を感じる名言でした。
処方箋、お出ししておきます。